ビジネスマンではない父より息子への果てしない手紙

人生の荒波に乗り出した息子たちへ

働くことについて考えてみる(終)

企業には理念が必要だと書いた。しかし個人には存在理由などない。人間はなにかの使命を帯びて生まれてくるわけではない。人の一生なんて100億年の宇宙の歴史の中ではほんの一瞬に過ぎない。うたかたの泡のようなものだ。
だが、その泡は意志を持った泡だ。生まれてから消えるまでをどのように生きるか、自分で選ぶことができる。
これまで延べてきたような、人類が行っている壮大な営みの中のどの部分を役割として自分が担うのか、その答えが人としての使命だ。

自分の仕事や職業を使命と感じることができる者は幸福だ。しかし自分ではそれとは気づかず社会に影響を与えている人もたくさんいる。
身近な誰かに喜んでもらいたくて料理を作ってあげたりマッサージしてあげたり、そういうことばかりしている人だって、その身近な誰かを通じて社会とつながっている。それはいわゆる「労働」ではないけれど、誰かに喜ばれ感謝された時点で「仕事」と呼んでいいのではないかと思う。

そしておそらく世の中には、そういった「賃金を目的としない仕事」が溢れていて、この社会を根っこのところで本当に支えているのはそういう「仕事」なんじゃないかと思う。
そこに光が当たることで、子どもや老人、病気や障がいの人を「お荷物」にしないような社会の実現に一歩近づくような気がしている。
ひとことで言えば、貨幣の代わりに「助け合い」が循環する社会である。稼いだ貨幣の額だけを労働の価値としない社会である。

 「誰かの役に立ちたい」という欲求は、人類が社会生活を営む上で獲得した本能のようなものである。
「働く」ことというのはその欲求と密接に結びついているが、賃金が目的になったことで「苦役」と似た意味になってしまった。
いまや「労働が尊い」などと言う人はいなくなってしまった。

 私たちがまずこれからやらないといけないことは「労働」を「賃金」から切り離すことではないか。
そういう形での「働く」ことの復権。
つまりは、私たちの「働く」ことへの観念を少しく(あるいは大いに)転回させなければいけないのではないかと思うのである。

 

ボランタリー経済の誕生―自発する経済とコミュニティ

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