ビジネスマンではない父より息子への果てしない手紙

人生の荒波に乗り出した息子たちへ

働くことについて考えてみる(4)

企業というのは、これまで述べてきたような「人間の営み」を、組織として担っている集団のことである。

人が集まっただけでは組織ではない。
目的があって、その目的のために構成員が「力を合わせる」ことで「組織」になる。

私はだいたい、組織に属すことがあまり好きな方ではない。
しかし以前、あるゼネコンのプロジェクトリーダーから「ひとりでできることはたかが知れている。組織にいるからたくさんの仕事ができる」と諭されたことがある。
また郷里を同じくする経営者から「一人で持ち上げられない大きな石も大勢で力を合わせれば持ち上げられる。それが会社だと思う」と説かれたこともある。
私の性向や好き嫌いは別にして、私はそれらの言葉には大いに共感している。

人々が「力を合わせる」ためには「かけ声をかける」人が必要だ。組織を率い、目的の方向に動かしていく人だ。直接「石」に触れてはいないかも知れないが、彼のかけ声が間違っていたら石は持ち上がらない。
その人は確かに「権限」を持っているが、権限には責任も伴うわけで、なにもその人が「エラい」わけではなく、単に「役割」を担っているだけだと私は思う。

そもそも企業とか会社ってのは、社会的な「インフラ」であるべきなんじゃないかと常々思っている。

“組織は存在することが目的ではない。種の永続が成功ではない。組織は社会の機関である。外の環境に対する貢献が目的である。ピーター・ドラッカー

人類全体がこの地球上で生き延びていく上でやらなくちゃいけないことのうち、「俺たちはこの部分を担う!」と宣言し、賛同した人々が参集して起きるのが企業の本来の姿ではないかと。
つまり「理念」あってこその「企業」なんじゃなかろうか。
だから、現在の制度で、定款に理念を掲げなくても会社が作れてしまうのは、実はどうも納得いかない。「利潤を目的とする」ということを臆面もなく言えてしまうのはすごく危険であると思う。

「利潤」が「社会に必要とされている度合い」の指標として機能していた時代は、もうはるか昔に終わってしまったからだ。

 同様に、個人が組織に所属するのに「雇用」っていう方法が一般的なのも妙な気がしている。いわゆる正社員と短期アルバイトの間に幅広く段階的な雇用体系があるのを見ると「なんなんだよ」と思う。プロ野球の選手みたいな契約の仕方もOKにするとか、フリーターみたいな働き方も差別しないとか、組織と個人の関係は、制度的にもっと多様でいいんじゃないかと思う。

 会社や組織が、かつてのような「閉じた互助精神」ではなく、「目的」や「理念」を行動原理とするようになると、所属する個人の人生を「まる抱え」する必要はなくなる。

むろんその代わり、個人に対する社会的なセーフティネットは今よりもっと重要になるだろうけど。
いずれにせよ、企業は、その従業員にとって「夢を託す場所」であるべきだ。