ビジネスマンではない父より息子への果てしない手紙

人生の荒波に乗り出した息子たちへ

借金についてのシンプルだけど大事な話

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のほほんと生きてきたので,人生に深みがない。
従って,わざわざ遺すような教訓も持ち合わせていない。

だが,何もエラそうなことを言わなくても,
自分と同じ轍を踏んでほしくないと思うようなことを
言い遺せばよいのだと最近気づいた。

それなら私にもある。

こればかりは声を大にして言いたい。

 

それは,

カードローンを安直に
リボ払いにするな
という一言に尽きる。

はまったら抜け出せなくなる。
リボ払いというのが,そもそも(初めから)そういう仕組みなのだ。

「できればしない方がいい」というレベルではない。

絶対に,
リボ払いは利用するな。

絶対にだ。

しあわせについて考えてみる(2)

西原理恵子の『この世でいちばん大事な「カネ」の話』に書かれていた、スラム街で暮らす子供の話。

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (角川文庫)

ゴミの集積場で金属やペットボトルを集めて売って、やっと家族が一日食べるだけのお金になる。

貧困だけれど、彼(または彼女)は、きっと家族そろって夕飯を食べている。

学校へも行けない。
ゴミ集積場は病原菌や危険な物質でいっぱいだろう。

住んでいるところも決して衛生的だとは言えず、平均寿命もすごく短いに違いない。

でも、彼(または彼女)は、きっと毎日家族そろって夕飯を食べている。


翻って私の周囲を見れば、共働きや単身赴任で家族は離ればなれだ。

冷蔵庫に用意してあるおかずを電子レンジで温めて一人で夕飯を食べる子どもも、わりと沢山いるんじゃないかと想像する。

テレビやゲームがあるから寂しさはごまかせるだろう。

環境は衛生的だし、万一急病になったり怪我をしてもすぐに救急車が来てくれる。

スラムに生まれる子どもたちに比べたらずいぶん長生きもするだろう。

でも、彼(または彼女)はいつも一人で夕飯を食べている。


どっちが幸せなのだろう。

もちろん、家族で一緒に夕飯を食べることが幸福の唯一の指標ではない。

誰もが「今日を生き延びるために」あるいは「夢を実現するために」必死で働いている。

しかし、子どもはすぐ成長してしまう。
一緒にいられる時間はとても短い。


とても極端な喩えになってしまうが、

生まれ落ちて以来満腹になったことがなく、親は真面目に働こうにも職が無くて、いつも家庭は貧乏で学校にも通えず、子どもながらに働いて幾ばくかの金を得、それでやっと食べていけるだけの生活でも、毎日家族そろって、今日は誰それに親切にしてもらったとか、友達や兄弟とけんかしたとか、夕日がきれいだったとか、そんなことを家族と話しながら夕飯を食べていた子どもがいたとして。

その子どもが、何かの理由で急にこの世を後にしなければならなくなったとしたら。

彼(または彼女)の一生は、不幸だったのだろうか。

生きていくのは楽ではなかったろうし辛かっただろう。

だが、不幸だったのだろうか。


私は思うのだ。
「不満足な幸福」というのもあり得るし、
「快適な不幸」というのもあるだろうと。

幸福とは、
旅の目的地のことではなく、
旅のしかたのことである。
(マーガレット・リー・ランベック)

 

しあわせについて考えてみる(1)

しあわせ=幸福について思うとき、いつも、マーク・トゥエインの『不思議な少年』が、まず頭に浮かんでくる。

不思議な少年 (岩波文庫)

この物語の最後の方で主人公が、不幸な目にばかり遭っている老人を
「せめて余生は幸福にしてやってほしい」
と、超能力を持った少年に頼む。

するとその少年(自称天使)は
「わかった」
と、老人が老人自身を王様だと思い込むようにしてしまう。

老人にとって、その瞬間から周囲の人間はみな下僕になった。
つまり老人は気がふれたのだ。

「なんてことを!」
と抗議する主人公に、不思議な少年
「何を言ってるんだ。老人は確かに自分を幸福だと感じているではないか」
と反論する。


この老人は幸福なのだろうか。

幸福でないとしたら、本当の幸福とは何なのだろうか。

 

もうひとつ、最近読んだ本『マンガ 禅の思想』からのエピソードを紹介する。

新装版 マンガ 禅の思想 (講談社の実用BOOK)

ある男が荒野で虎に襲われ、切り立った崖から下がった蔓に飛びつきよじ登って難を逃れようとした。

しかし崖の上の方では、ネズミがその蔓をかじっており蔓が切れるのも時間の問題。

虎は下で牙をむきウォーッと吼えている。

そのときふと男は目の前にみごとに実った野イチゴを見つけた。

男は手を伸ばしそれを口に入れ
「美味しいなあ」
と。


この男は、野イチゴを食べたとき確かに幸福だったのだと思う。

しかしやがて蔓は切れ、男は虎に食べられてしまうかも知れない。

もちろんこれは私たちの人生の寓意で、誰もみな一寸先は闇だし、いずれ確実に死が待っているということだ。

そんな状況で、たかだか食べ物が美味しかったくらいで幸福だと言っていいのだろうか。


「そう。それでいいのだ。それが幸福というものなのだ」
と言いたい自分がいる。

が、そういう幸福感と冒頭の老人の幸福感とは本質的に何か違いがあるのだろうか。

それとも同じなのだろうか。

幸福が人の脳内の状態のことだけを指すのではないとしたら、
その他の条件とはいったい何なのだろうか。